シャーリー・ジェーン・テンプル(Shirley Jane Temple、結婚後はシャーリー・テンプル・ブラック、Shirley Temple Black:1928年4月23日- )は、アメリカ合衆国のハリウッド女優および外交官で、子役女優であった。なお、外交官としての業績により大使の称号を一生名乗ることを特に認められているので、より正確にはシャーリー・テンプル・ブラック大使(Ambassador Shirley Temple Black)が正しい呼称である。
1930年代の子役時代においては、当時のすべての映画スターの中で最も格が高いスターで、アメリカの象徴的存在であった。1930年代に彼女がフォックス・フィルム社の子役スターとして登場した時、大プロデューサーのサミュエル・ゴールドウィンは、「シャーリー・テンプルの人生が続く限り、そのすべての年において、彼女は素晴らしいだろう」と語ったと伝えられる。その言葉どおりシャーリー・テンプルはいくつもの分野で顕著な業績を挙げ、6歳の時から82歳になるまでアメリカの名士(institution)であり続けている。彼女は2010年現在、カリフォルニア州サンフランシスコ市郊外のウッドサイドの邸宅で家族と共に健康に暮らしている。
彼女は自分の人生には3つの時期があったと述べている。女優の時期と、子育ての時期と、外交官の時期である。アメリカ映画女優として1930年代から1940年代に活躍。映画女優としては、特に1930年代の子役時代の活動が名高い。6歳にしてハリウッドの伝説的なスターであり、世界的に非常に高い知名度があり、しばしばコカコーラやニューヨークにある自由の女神と比較された。その後、ティーン・アイドル・スターとなった。1950年に幸福な結婚をした後に映画界を引退し、1950年代と1960年代前半は3人の子供の子育てに専念すると共に、アメリカのテレビに出演した。1960年代後半から1990年代後半の時期は外交官や数社の大企業の重役を務めた。
シャーリーは約60年前に映画から引退しているが、アメリカでは現在にいたるまで、子役の人気投票をすると、現役の子役たちを差し置いて必ず1位か2位になる存在である。オードリー・ヘプバーンと同様に過去のスターでありながら、アメリカでは一種の「現在のスター」であり続けていると言っていい。
シャーリーはアメリカでは勤勉さと真面目さと温かさと優雅さと品行方正で知られており、伝説的な映画女優としてまた著名な外交官として高い尊敬を受けている。
[編集] 家族
テンプル家はイギリス系にペンシルベニア・ダッチが混ざった家系であるが、ワスプとされる家系。ちなみに彼女から17代前の先祖にさかのぼると英国の詩人のジェフリー・チョーサーがいる。テンプル家は プロテスタントの清教徒の長老派で、代々医者か弁護士か銀行員を職業としてきた。清教徒は、伝統的に実業を重んじ演劇や映画を軽視する傾向があるが、シャーリー・テンプルが少女スターになった時、テンプル一族の反応は複雑なものがあったと伝えられる。
父方の祖父は医師であった。父親ジョージは銀行員(後に実業家)で、彼女が生まれたときは大手銀行30社の一つであるカリフォルニア銀行(Union Bank of California)のサンタモニカ支店長であった[1]。(なお、淀川長治を含む一部の情報源では父親が銀行の頭取と述べているがこれは完全な誤り。銀行の幹部ではあっても頭取になったことはない)
母方の祖父はドイツ系で宝石・時計商であり、母親ガートルードは専業主婦であった。
彼女の2人の兄はそれぞれスタンフォード大学と陸軍士官学校を卒業後、FBIの幹部と海兵隊の士官になった。
[編集] 生い立ち
1928年にカリフォルニア州サンタモニカの上品な住宅街で生まれた。[2]。彼女は現在に至るまで、カリフォルニア州で人生の大部分を過ごしており、清教徒 の勤勉さや真面目さと並んで、カリフォルニア州的な明るさと積極性が彼女の特徴である[3]。
母親は胎教として、妊娠中に音楽や美しい絵、綺麗な風景に接するようにつとめた。生まれてきた彼女は赤ん坊の時から、ダンスと音楽に強い関心を示した。この「シャーリー・テンプルの胎教」の話は、アメリカではよく知られたエピソードである[4]。家庭は円満で、両親の強い愛情の下で育つ。良質の食事、適度な運動と日光浴、規則正しい生活によって、3歳までほとんど病気をせずに育った。彼女の上の2人の兄は既に十代になっており、育児の手がかからなくなっていたため、母親は彼女と毎日一緒に歌ったり踊ったりして過ごしていた[5]。
目の色は茶色であった。髪の毛は、生まれてから7歳ぐらいまでは金髪だったのだが、8歳ぐらいから赤みを帯びるようになり、やがて赤毛に近くなり、10歳ぐらいからは茶色になった。やがて大人になるとほぼ黒髪といっていい色になった。
1931年3歳の頃、ダンスと音楽に強い関心を示した彼女を、母親はメグリン・ダンス学校(Meglin's Dance School)に入学させる[6]。
[編集] 少女スター誕生
1932年から1933年にかけてユニバーサル映画社の下請けだったエデュケーショナル社(Educational Pictures)が製作した、幼児だけを登場させた短編劇映画シリーズ「ベビー・バーレスク」(Baby Burlesks)や「フロリックス・オブ・ユース」等の主役を十本以上続けてつとめる。
1933年に、フォックス・フィルム社(20世紀フォックス社の前身)に見出されて7年契約を結び『歓呼の嵐』に出演。準主役だったが高い評価をうける。次にパラマウント映画社に貸し出されて、『可愛いマーカちゃん』に主演。一夜にしてアメリカを熱狂させる。さらに『ベビイお目見得』に主演、この映画を見たフランクリン・ルーズベルト大統領は、定期的に行っていたラジオ演説「炉辺談話」で全国民に向けて「大不況のさなか、アメリカ国民が映画でシャーリー・テンプルの笑顔を見て苦労を忘れることが出来るのは素晴らしいことだ」と語る[7]。6歳にしてフォックス・フィルム社の看板女優になったばかりではなく、映画会社の予測を遥かに超え、たちまちのうちにアメリカ映画で最も人気のあるスターになる。彼女の映画の成功が、大恐慌下のメジャースタジオのフォックス・フィルム社の倒産を救った[8]。続く『輝く瞳』と1935年の『小連隊長』も熱狂的な支持を受ける[9]。
彼女は、真面目さや勤勉さが特徴であった。映画の出演が決まると常に、撮影が始まるまでに、台本に載っているすべての登場人物の台詞を必ず暗記していたが、[10]台本には書き込みやマーク等は一切しなかった。それでも決してNGを出さず、一回の撮影で監督を満足させる演技ができることから、「一回撮りのシャーリー(One-take Shirley)」と言われていた[11]。撮影のときは、決して遅刻をせず、必ず予定より少し早めにセットに入っていた。大人になってからも、どんな時も常に時間に正確であることは終生変わらなかった[12]。
アメリカの国の機関であるケネディ・センターは次のように述べている。「最初からシャーリー・テンプルには、映画のカメラに愛される物があった。輝く瞳と、巻き毛と、魔法のような存在感と、溢れる魅力―そして驚くべき才能である」[13]1930年代当時、大人のプロのダンサーでも難しいステップを楽々と踊れ、正確な音程とリズムで難しい曲が歌え、気難しい批評家も唸らせるような絶妙な間合いで台詞が言えて自然な演技が出来る5〜6歳の子役は彼女の他には一人もいなかったと言える。そして、2009年現在に至るまで、幼稚園児の年齢で踊りと歌と演技を彼女のようにこなせる子役の名前を挙げるのは難しいであろう。
そしてケネディ・センターが「溢れる魅力」と述べているように、彼女は生まれつき、人々を惹きつけ相手の心を明るくしてしまう強い魅力を持っていた。彼女はどんな時でも快活さを失わず、決して不機嫌になったり意地悪だったりグズったりしたことがなかった。映画監督のデイヴィッド・バトラーは「彼女と話をしたことのある者は、みんな彼女の人柄に感動していた」と語っているし、フランクリン・ルーズベルト大統領は、定期的に行っていたラジオ演説「炉辺談話」で全国民に向けて彼女の「人々に影響を与える明るさ(infectious optimism)」[14]を賞賛している。
1930年代に、世界最高のタップ・ダンサーと言われた俳優のビル・ボージャングル・ロビンソンは、「神様はシャーリーを、後に続くものはいない、唯一無二の存在として創った。シャーリーの後、二度とシャーリーのような存在は現れないであろう」と語っている。
[編集] 少女スターとしての成功
『可愛いマーカちゃん』に出演した時点で、ある出来事が起きた。彼女は両親とホテルに滞在していた時、人品卑しからぬ男がやってきて自分は土地のカソリック教徒の信者の代表だと名乗り、メダルが欲しくないかと5歳のシャーリーに尋ねた。シャーリーはおもちゃのメダルを集めていたので、欲しいと答えた。男はシャーリーを抱き上げ、後ろから両親とフォックス映画社の渉外部員が付いていった。なんとホテルの宴会室では、数千人の人々が出席している大きな大会が開催されている最中で、止める間もなく、男はシャーリーを壇上に上げ、メダルを授与してからスピーチを求めた。スターになるかならないかの時期で、誰もまだこんな時どうふるまえばいいか全く教えてなかったので、両親もフォックスの渉外部員も真っ青に なり、どうなることかと固唾を飲んで見守った。するとシャーリーはとてもにこやかに、メダルのお礼を述べ、呼んでくれたことに感謝の言葉を述べ、大会が成功するように祈っていますと述べ、最後に、皆さんが大好きですと言って、投げキスをした。シャーリーは思ったままを述べたのであったが、出席者たちは感動し、長い大きな拍手が続いた。両親はホッとし、シャーリーが壇から降りた後でフォックスの渉外部員はシャーリーに「君に教えることは何もない。どんな時でも自分をそのまま出せばいいよ」と感に堪えたように言った。その後もシャーリーはどんな時でも自分をそのまま出すことで、感動を聴衆のアメリカ人たちに与え続け、2009年現在に至っている。
シャーリーへのファンレターは、『可愛いマーカちゃん』に出演した時点で週に4千通を超え当時のアメリカで最も多いファンレターを貰うスターとなった。その後すぐに週1万通以上になったためFOXはフルタイムで専属の秘書を10人雇った。また、彼女のサインを多くの人が欲しがった。クリスマスの時期に母親とデパートに行ったところ、デパートのアルバイトのサンタクロースが彼女のサインを欲しがったので、サンタクロースがいると信じるのを止めてしまったと、後に彼女は語っている。
1935年、彼女は、1934年の映画での業績に対して第4回のアカデミー賞特別賞を受賞している(それに先立つ3回の受賞者は、ウォルト・ディズニー、チャーリー・チャップリン、トーキーを最初に使ったワーナー・ブラザーズである)。受賞当時、シャーリー・テンプルはまだ6歳であった。アカデミー賞のすべての分野において、この最年少の記録は2009年現在、破られていない[15]。当時のアカデミー賞の授賞式は夜遅くまであり、彼女の番になったのは午前1時半を過ぎてからであった。仕事の後で当然疲れて非常に眠かったはずであるが、非常ににこやかに受賞の挨拶をした。挨拶が終ってから小さな声で母親に、「ママ、もう帰っていいの?」とにっこり微笑んで尋ねた。ところがその声を集音マイクが拾ったので、アカデミー賞の会場に大きな声で流れてしまい、出席者全員が爆笑し、疲労や眠気を全く表に出さないこの幼女の驚くべき頑張りに対して賞賛の大きな拍手が起きた。
映画界に入った後は、後年まで母親のガートルードはぴったり娘につきそい、「映画界の悪い影響」を受けないように保護した[16]。フォックス・フィルム社も同じく保護が必要だという意見で、撮影所内に彼女専用の家と、専用のおもちゃと、専用の家庭教師を用意した。そのような環境において明るく品行方正に育っていった[17]。フォックス・フィルム社は、彼女が他の子役や裏方と遊ぶのを禁止していた。法律上1日4時間しか撮影に使えなかったので、その間は仕事に専念させたいという理由だった。また、西部劇スターのウィル・ロジャーズが事故死した後では、フォックス・フィルム社の命運がシャーリー・テンプル一人の肩にかかっていたので、他の子役や裏方と遊んでいるうちに病気や怪我をすることを非常に恐れていた。彼女の成功をねたんだ他の子役の母親が、顔に硫酸をかけようとしたり、毒入りのキャンディを送りつけた事件が起きてからはなおさらであった。同時に、他の早熟な子役から悪い影響をうけて、品行方正な子供というイメージに傷がつくのを恐れていた。撮影所で、4時間撮影の仕事をし、3時間勉強し、昼休み� �1時間をかけた。昼休みに名士たちの訪問がある場合もしばしばだった。毎日4-5時ごろ帰宅し、いつも夕食まで近所の普通の子供たちと遊んでいた。彼女と最も親しかったのはナンシー・メジャーズであった。夕食後は普通の子供がやるように遊んだり、ラジオを聴いたり、家のお手伝いをしたりしていた。寝る前に次の日の撮影の準備をした。保護策をとらなかったMGMでは子役スターたち(ジュディ・ガーランド、ミッキー・ルーニー、エリザベス・テイラー等)が非常に早い時期にセックスと酒を覚えてしまい、大人になってからも精神的に不安定で結婚と離婚を何度も繰り返すようになったことを考えると、フォックスの処置は賢明だったと言える。ちなみに、フォックス映画社のもう一人の少女スターで、1930年代に悪ガキの役を演� ��続け、シャーリーとは『輝く瞳』で共演したジェイン・ウィザースも精神的に安定した人生を送っている。
1935年にフォックス・フィルム社は、20世紀映画会社と合併して、20世紀フォックス となった。合併祝賀パーティの席上、あるシナリオライターが6歳のシャーリーを抱いて、高い高いをしたところ、パーティの全員が、シャーリーが怪我をするのではないかと、恐怖で凍りついた顔になった。シナリオライターは、今自分が両手で高く差し上げているのは、20世紀フォックスの全財産にも等しい子どもなのだと気づいて、恐ろしさにくらくらして、思わずシャーリーを落としそうになったというエピソードが残っている。
大スターになったシャーリーには、stand-in(スタンドイン)が付いていた。彼女付きのスタンドインの中では、マリリン・グラナス(Marilyn Granas)やメリー・ルー・イズライブ(Mary Lou Isleib)等が知られている。『ベビイお目見得』(Baby Take a Bow)や『輝く瞳』等で、初期のスタンドインを務めた1歳年上のマリリンとは、ベビー・バーレスク作品のThe Kid's Last FightやKid in Hollywood等で出演者として競演している。マリリンは後にキャスティング・ディレクターになった。また、マリリンの後にスタンドインを務めたメリー・ルーは、撮影所で他の子役達と殆ど接触が無かったシャーリーにとって唯のスタンドインでは無く学友であり親友だった。
以後12歳までは学校に通わず、20世紀フォックスのスタジオ内で、専用の家庭教師について学んだ。6歳のとき知能検査で10歳の知能があると評価された。この頃のシャーリーのIQは155以上あった。知能検査ではこれは「天才」の範疇に分類される。家庭教師とは、数学年上の授業内容を学んでいた[18]。
彼女以後の子役の少女は、マーガレット・オブライエンやナタリー・ウッドやテータム・オニールのようにどこかに影のある「大人のような子ども」であったり、ブルック・シールズやジョディ・フォスターのように妖艶さを売り物にしたりするようになっていく。しかしシャーリー・テンプルは、どこまでも純粋で無邪気で明るい、子どもらしい子どもを演じた20世紀のアメリカ映画で唯一の大物の少女スターであった[19]。
[編集] ハリウッドの頂点へ
契約以後、20世紀フォックスにシャーリーがもたらした収益は1930年代当時の金額で3000万ドル以上と言われている。(1930年代当時は極端なデフレでドルの価値が現在と全く異なっている。現在のドルに換算するには、年によって異なるが大体30~50を掛けてみることをお勧めする。) 1930年代、彼女はアメリカ映画の最大のスターであり、1935年、1936年、1937年、1938年と、アメリカのマネーメイキング・スター1位になるという歴史的な記録を打ち立てた。4回マネーメイキング・スター1位という記録は男優ではその後1940年代にビング・クロスビーが史上最高の5回を獲得することによって破られるが、2009年にいたるまで女優で彼女の記録を破るものはまだ現れていない。また他のスターたちは一生俳優を続けてその生涯の総決算としてマネーメイキング・スター1位を手に入れているので、10歳になるまでに易々と4回なり、後は別の分野で顕著な業績をあげたシャーリーのケースは非常に際立っていると言えよう[20]。(なお、20世紀フォックスを含む日本の一部の情報源ではシャーリー・テンプルの映画1作品あたりの出演料が100万ドルだったと述べてあるがそれは完全な間違いである。女優の映画1作品あたりの出演料が100万ドルになったのは1960年代の、エリザベス・テイラーの『クレオパトラ』(20世紀フォックス)やオードリー・ヘプバーンの『マイ・フェア・レディ』からである。1930年代ではシャーリー・テンプルが出演料の最高であったが、10万ドルであった。)
この時期の、代表的な映画作品としては上述の『可愛いマーカちゃん』、『輝く瞳』、『小連隊長』の後、ファンの多い作品である『テンプルちゃんお芽出度う』(原作は『あしながおじさん』)、『テンプルの愛国者』、『テンプルの灯台守』、『テンプルの福の神』、『テンプルのえくぼ』、『テンプルの上海脱出』、『テンプルの軍使』、『ハイジ』、『農園の寵児』、『天晴れテンプル』、『テンプルちゃんの小公女』等が挙げられる[21]。このうち、『テンプルの福の神』と『農園の寵児』は、公的機関であるアメリカ映画協会(AFI)によって「ミュージカル傑作180選」の中に選ばれている[22]。また『輝く瞳』は、正確に言えば準ミュージカルであるが、イギリスのテレビ局「チャンネル4」によって、「傑作ミュージカル100選(Channel 4's list of 100 Greatest Musicals」)の97位(96位は『コットン・クラブ』、98位は『ミス・サイゴン』)に選ばれている。
当時、彼女はゲーリー・クーパー、スペンサー・トレーシー、キャロル・ロンバード、ジャネット・ゲイナー、フランク・モーガン、ライオネル・バリモア、アリス・フェイ、ランドルフ・スコット等の当時の最高のスターたちと共演している[23]。また、当時世界最高のタップ・ダンサーといわれたビル・ボージャングル・ロビンソン(Bill Robinson)との共演は特筆すべきである。シャーリー・テンプルとビル・ロビンソンは、アメリカの歴史上初めての黒人と白人のダンス・ペアであった。彼女は、共演した相手の中で、ビル・ロビンソンが最も好きだったと言っている[24]。
有名なヒューモリストのアービン・コッブはシャーリーのことを「(子供たちへの)サンタクロースの最大の贈り物」と呼んだが、彼女は世界中の少女から熱狂的な支持があった。当時、アイデアル社(Ideal Toy Company)から発売されたシャーリー・テンプル人形は爆発的な売れ行きを示した。また、シャーリー・テンプルの女児服、アクセサリーも爆発的な売れ行きを見せた。アメリカ・ヨーロッパ・日本だけでなく、文字通り世界中の少女たちがシャーリー・テンプル人形や服やアクセサリーを欲しがっていたのである。
この間、何度か誘拐事件がらみの脅迫をうけたり、気のおかしい女性から射殺されそうになったこともあったが、間一髪で免れた。
1937年にニューヨーク・タイムズはシャーリーを「アメリカ国民の天使」に選出している。
同年に『テンプルの軍使』でジョン・フォード監督のもとで主演をつとめた時は、危険なスタントも自分でやり、殴られる場面では、本当に激しく殴らせて、痛みをこらえてけろりとした表情をしていた。ジョン・フォードは、彼女のガッツに舌を巻き、彼女を高く評価し続けた。ジョン・フォードは彼女のことを「一回撮りのテンプル(One-take Temple)」と呼んでいた。後に、ジョン・フォードは、彼女の長女の名付け親にもなっている[25]。『テンプルの軍使』について、大小説家のグレアム・グリーンは、9歳のシャーリー・テンプルに中年の男性の観客は欲情を感じているという趣旨の批評を書き、イギリス世論の怒りと20世紀フォックスからの告訴を招いた。(この件に関しては後述の「グレアム・グリーン事件」を参照のこと)
1939年の『オズの魔法使』のドロシーの役も彼女が演じる予定であった。非公式にメトロ・ゴールドウィン・メイヤーがカメラテストをして、衣装をつけて主題歌を歌わせてみたところ素晴らしい出来だった。それで同社の社長のルイス・メイヤーはシャーリー以外にこの役を演じられる者はないと考えた。しかし、20世紀フォックスとメトロ・ゴールドウィン・メイヤーの話し合いがつかず、結局ジュディ・ガーランドに役が回った。(1937年に20世紀フォックスのシャーリー・テンプル一人と、メトロ・ゴールドウィン・メイヤーのクラーク・ゲーブルとジーン・ハーロウの2人を交換する形で、それぞれ貸し出すことに一旦話が決まっていたのだが、ハーロウが急死してしまった。メトロ・ゴールドウィン・メイヤーには、ハーロウの代 わりに出せるような大スターが他にいなかったので、この話は流れてしまった[26])
彼女は、もはやただの少女スターではなく「アメリカの無垢(アメリカン・イノセンス)」の象徴となっていた。
[編集] アメリカの象徴
1930年代に、アメリカの名士や、外国からアメリカを訪問した名士は、頻繁に彼女と顔を合わせた。フランクリン・ルーズヴェルト大統領とも、社会運動家の大統領夫人エレノア・ルーズヴェルトとも、FBI長官のジョン・エドガー・フーバーとも親交を結んでいた[27]。ルーズヴェルト大統領の誕生日の式典において、ルーズヴェルト大統領の膝に乗って「ハッピ・バースデイ・トゥ・ユー」を歌った。
雑誌やニュース映画では、毎月彼女のことが大きく取り上げられた[28]。旅先のボストンのホテルで熱を出して寝込んだときは、新聞は全段ぬきの一面トップの大見出しで報じ、ニュース速報を次々に出し、彼女の泊まっているホテルの周りには彼女を案じる1万人以上もの大群衆が集まった[29]。また、1935年の12月に、シャーリーが家族とハワイにバカンスに訪れた時は、彼女を一目観ようと10万人以上の人々が、彼女の乗った船が着く港や、行く先々に押し寄せ、シャーリーがハワイに着く予定日は、ハワイの公立学校が臨時休校になった。彼女の言葉は頻繁に新聞の見出しになった。(例えば「喫煙は悪い習慣だとシャーリー・テンプルは語る」とか「ムッソリーニは侵略したエチオピアから出て行くように誰かが命じるべきだとシャーリー・テンプルは語る」など[30])